昭和49年07月08日 朝の御理解



 御理解 第5節
 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが、それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 片便で願い捨てという、金光様の御信心を頂いて参りますと、片便の願い捨てではなくて、それに対する御返事の様な御教えを頂いて帰るのです。そう言う事を此方金光大神の場合は、片便ではないんだぞとおっしゃっとられるんだと、こう思うんですけども。そんなら片便の願い捨てではないと言う事は、一つの例えば願いなら願いを通して、願いが成就した暁と、又は願いの成就の過程においてです、何らかの変り映えというものがなからなければならないと言う事だと思うですね。
 最後に「此方が祈る所天地金乃神と一心なり」と言っておられますが、私共の場合にも、天地の大恩を聞かして貰うたり、天地の道理を聞かして貰うたり言わば、天地金乃神様のお心を聞かせて頂くのですから、そのお心に沿い奉るという生き方がなされない限りです、矢張り片便の願い捨てと同じ事だと思うです。ただおかげを頂くというだけでは。天地金乃神様の言うならば、お心を分からせて頂いて。
 そのお心を心としての日常生活が出来なければ、私は矢張りここで金光大神の願いであるところの片便の願い捨てではない、ここへ参って来ると、それに対する言うならば御返事を頂けれる。言うなら神の心を分からせて貰う、天地の道理を、天地の大恩を分からせて貰う。そこで天地の大恩に対する神恩報謝の生活、又は天地の道理を聞かして頂けば道理に合うた生き方。
 そこに言うならば、天地金乃神様の心を心としての、生き方が出来て始めて、金光様の信心の値打ちと片便の願い捨てではない。お願いをするその言うならば、お取り次ぎを願う度に、自分の心が向上していくという、おかげを頂いてはじめて、この御教えの「おかげを受けてくれよ」という神様の願い、金光大神の願いが、達成される事になると思うんです。只話を聞いて帰るだけではいかんのです。聞いて帰るだけであったら、それは片便の願い捨てと同じことなんです。
 最後の「此方が祈るところ天地金乃神と一心なり」と言うようにです、私ども一人々々が、やはり天地金乃神様の心を心としての生き方になるのですから、天地金乃神と一心ということになる筈です。ね。天地金乃神様の心を心としての生き方、それをなら天地の道理とか、天地の大恩とかいうことになる訳です。だから大恩を悟って喜び感謝の生活。道理を分からせて貰うて道理に合うた生き方。
 そこに始めて是は金光大神だけの専売特許ではない、私共信心者一人々々がです、天地金乃神様の心を心として行く所の信心から、此方大坪総一郎が願うところ天地金乃神様と一心なりとも言えれるようなおかげを頂かねばいけないと思うです。昨日は一昨日から青年会の方達の一泊二日の信心研修会を毎年開かれます。昨日はちょうど私が八時からの講話を受け持っておりましたから、八時から皆さんに話を聞いて頂いた。「三十分間話して下さい」とこう言う。
 それからまお話しをさせて頂いて、「時間は」と聞いたら、三十分ジャストという話なんです。私は別に時計を見ながら話した訳でもない。けれども三十分と言われたから、結局、神様が三十分間話させて下さった。こう言う様な事はです、言わば私がもう天地金乃神様と一心になっておるしるしなんです。皆さんの朝の御祈念なんかもそうです。この頃から、「合楽の先生の御祈念は一時間げな。もう柏手も打たっしゃらな、祝詞も上げらっしゃらん。ただ、心中祈念さっしゃるだけ。
 そして御結界につかっしゃるとがちょうど一時間げな。」と言う話を「そりゃ違う、インチキしちゃるとたい。懐の中に時計か何か入れて、コソッと見ござるとたい」と言うた人があったという訳なんですけれども、本当にそう言われる程しに、言うならば日々そういうおかげの中にお互いおかげを頂いておるというわけです。それはどう言う事かと言うと、私は成程五分違う事も、十分違うじゃない。
 長く一時間十分もという時も、そりゃあありますけれども大体において一時間と、私が心に決めさして頂いとるんですけれども、それが所謂ジャスト一時間と言う事にです。これだけのことじゃありません。一事が万事に私の言うておる事思うておる事が、「神様が言いござるとばいな」、「神様が思いござるとばいな」という様な、実感に打たれる事が、一日の中、何回あるか解りません。なら皆さんもそれは事実の上に見たり聞いたりしておって下さる訳です。
 だからこそ天地金乃神様の御恩恵をです、もう合楽一つに集めて下さる程しのものを感じる様なおかげを頂いておる訳であります。ね。だから皆さんでもそれは日々の中に時折は感じられる事があるでしょう。それは皆さんがいわゆる願いを片便にせずに、願い捨てにせずに、その事を守ったり行じたりしておられるから、そのしるしが「素晴らしいタイミングの中に」と言うでしょう皆さん。そういう素晴らしいタイミングの中にある時には、もう天地金乃神様と一心にの状態の時です。
 そういう状態がいつもであらなければならないことを願いとしての信心、それを神様の心を心としてと言うことなんです。神様の心を心とするのですから、神様の心の中にちゃんともう、働き通しに働いておって下さる事になるのです。金光様の信心は尊いです。有り難いです。神様と同じ心になれる信心です。ね。だからこの神様が言うならば天地が自由になる程しの願いを立てれば、下さる様なおかげも頂けれるのです。金光大神の専売特許じゃない。
 此方が祈る所天地金乃神と一心と言う事は、私どもの場合でもそれを目指して、信心さして頂いて行く内にです、なら私が外に回る時に懐中物を持って参らん、時計を持って参らない歩かないと言う様な事は、これは神様といつも一心であることを、段々信じて来たから時計も要らなければ、懐中物も要らないと言う事になるのです。昨日お話の後が質問会でした。前の晩に班別懇談をなさった。そして明日は質問会の時に「こう言う事も分らん所を尋ねよう」「こう言う所も尋よう」と。
 皆がそれぞれに質問要項をちゃんと手帳に控えてあった「あれも尋ねよう」「これも質問しよう」と言う事になった。そこで私が三十分間お話を聞いて頂いた後に「○○君、昨日言いよった、あれを質問しなさい」。一番口に誠二君が言われよった。そしたらちゃんとこう言う事を質問しようと、色々とまあ質問の要項を書いとったらしい。所が頭を掻きながら言う事が、「質問することが有りません」ち言うんです。
 「どうしてや」ち言うたら、「僕が質問しようと思うておる事は、今日親先生が皆んな話なさった」という訳なんです。なら君誰とこう言う。同んなじ事を言うんです。三十分間の話の要約して、何十人かの人達が求めたり尋ねようと思ったことが全部、お話に出ておったと言う事です。これは私が天地金乃神と一心なりの、言わば状態。神様からお知らせ頂いた訳でも何でもない、もう神様が心の中で働き通しに働いておって下さるのだ「なら質問会はせんでも良い訳だね」と言うた様な事でした。
 なら「質問することが無いから、親先生一言このことを教えて下さい」と、若先生が皆に代わって申しとりました。「こういう信心をすればおかげを頂かれるというお話をいつも頂きます。」と「だからこういう信心、こう言う事ではおかげは受けられんと言った様な事も有るに違いありません。だからその事をひとこと説明して下さい」と言う事でした。それで私がね、「この神様はね、こげんしなければおかげが受けられないという様な神様ではないよ。
 どんなに悪人であろうが、善人であろうが言うならば、もう最悪の悪人であると言った様な人でもです、おかげの受けられる道なんです。こげな人がおかげが受けられんと言う事は絶対無い。と言う程しに、この天地金乃神様大きいんだ」と言う事を一言申した事でした。ね。世界中の氏子におかげがやってあると仰せられる様な、言うなら大いなる意味においてのおかげ、けれどもそれが悪人であろうが汚い人であろうがずるい人であろうが、一度自分の心を神様に向けてお取次を願い。
 お願いしますと言ったからには、信者氏子として神様がお取り立て下さり、氏子信者として認めて下さっておかげを下さる。「お前の心が汚かけん(おかげは)やらん」とはおっしゃらん。私共の周辺に沢山ありましょう。金光様の信心は頂いとるけれども、ちいとろくな奴じゃなかというのが沢山おるとですよ。泥棒気があるのがおるです。女癖が悪いとがおるです。それだって矢張り、おかげを受けておるでしょうが。
 だからこの神様はこげな事ではおかげは受けられんと言う事は絶対ない。どんな事でも願うからにはおかげを受ける。昨日の御理解で言うならば、「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信ぜられる氏子は少ない」。ね。言うならば合楽ではと言うか、教祖様の御教えのすべてはね、神様に信じられる氏子にお取り立て下さろうとする御教えばかりなんです。だから神様に信じられると言う事は、御神徳の世界に住む事。
 真善美の世界に住む事。極楽の世界に住む様なおかげの頂けれる、おかげと言うのはです、これは別です。ただおかげと言うならば、お徳を頂くと言う事はだから、お徳を頂くためには、どう言う様なことをしてはお徳を受けられんかと言うならば教えられますけれども。おかげがどういう信心。「こんな信心ではおかげが受けられない」と言う事を、一言言うて下さいと言う事になるとです、一言で「そげな事はない。おかげは皆んな受けられる」と言うより他にないのです。
 金光様の信心はそのように大きいのです。だからおかげが受けられるからといって、それに甘んじたりそれに言わば乗しかかった信心で、一生おかげで終始すると言う事は、桂先生の御教えを頂くとです「取次者が信心の徳を受けて、願う氏子にゃどんどんおかげを渡しておけ」と仰る。「この世で払えん時には、神があの世まで取りにいってやるから」と「集金に行ってやる」と仰った。だからそういうおかげでは、私共つまらんからです、片便の願い捨てする事なしに。
 成程その答えが一つ一つ、自分の信心の血肉になって行く様なおかげを頂かなければならない。言うならば、徳を受けていく信心を頂かなければならない。そのためには本心の玉を研くのであり、日々の改まりが第一である。本気で成り行きを大切にさせて頂いて、その成り行きそのものとの対決において、いつも私どもがその問題を通して信心を勝ち得ていかなければならない。そういう力を頂いていく稽古を積んでいきながらです、御神徳の世界。言うならば。
 神様が「あの氏子は、もう大丈夫」と言うて下さる程しの信心に、進んでいくと言う事がです、金光教の信心の私は眼目と言うか、天地の親神様が教祖金光大神に神依頼なさったと言う事、神頼みなさったと言う事は、そういう氏子のお育てを願われての事であると、私は思うです。ですから皆んながです、「天地金乃神と一心なり」と仰るが、本当に一心だなあと思われるようなね、自分を目指さして頂いての信心じゃなからならなければならないと言う事になりますね。
   どうぞ。